彩日のこと

いつそう名付けたかはもうよく覚えてない。

28歳にして人生で初めて就職?したわたしは、休日のありがたみをようやく知った。ちいさな村の、それも地方公務員となったわたしは土日祝日が当たり前に休み。

祝日つまり祭日はなんて、もうけもんの気分になる。
さいじつって響き好きだなぁ~。

今月さいじつあったかなぁ~って。

毎日がさいじつだったらなぁ~えっ?!

そのうちにこの、《彩日》が浮かんだのだ。
そうだ、日を彩るのだ。それは日々できること!
彩日!いい~!って。

そんなわけで彩日が生まれたのです。
そして彩日のなかみ。
それは、寄り合い処としてのあり方。
あくまでも、これとした形式はなく、だからこそそこに息吹のある、鼓動のある、血の通ったものであれる。そう感じ、多面体であること、気持ちのよいことをテーマにした。

ちいさな村だからこそ、ちいさな暮らしだからこそ、そしてこのうつくしい、
ちょっぴりふしぎな村だからこそ、実現できるのだ。
のんびりとした村民の暮らしや気質に寄り添えるよう、わたしはそんな場所が欲しいとおもった。
昔わたしがよく遊んだ、神社や駄菓子屋、中学の頃入り浸っていたカラオケ、高校のときに寄り道したからあげ屋やファミレス。おとなになって旅してまわったいろんな場所。
わたしを惹き付けた、それらがもつ《なにか》それらがもつ《エネルギー》のような《気》を彩日で実現してみたい、と、高尚なことをかんがえてしまったのだ。

あれもしたいこれもしたい
見たい食べたい触れたい。
あらゆる方向に興味を持っていたわたしが長い旅を経てぼんやりと見えた共通項、そしてちいさな暮らしをはじめて、すこしずつあらたな暮らしがいたについてきたころ、自分ごこちがよくなったころ、その共通項はまちがいないものであると確信したのだ。

これ以上を文章にするのはなかなかうまく表現できない。
だけど、自分でもうまく表現できないそれをわたしは確信して、じぶんの中から湧き出てくるのをただ日々を過ごしながらキャッチしている。瞬時になにかを確認してオールオーケーを出し続けている。そしてどうやらそれは間違いない。
話がだいぶんそれてしまったが、だから、彩日のやることは祭日がランダムにやってくるのと一緒で、あるようでない、う~んちがう。だから、生きてるのだ。うん、そうそう。
彩日を舞台にいろんなシーンを見るだろう。
パーソナルなことからグローバルなこと、そしてユニバーサルなことまで。
愛に満ち満ちた日もあれば、大雨のように泣く事もあるだろう。
さいこうの映画をみんなでつくれるよう、みんながのびのびとアクトできるよう、わたしは舞台をつくるのだ。

それが彩日。
乞うご期待。